ねぷた列伝
ねぷた講座
起源
弘前ねぷたの起源には、以下の諸説が存在する。
- 坂上田村麻呂の伝説
- 坂上田村麻呂が、蝦夷征伐に際し、笛や太鼓や法螺貝を使って敵を誘き寄せ、勝利したことから始まったという説。
- 津軽為信の伝説
- 津軽藩主為信が、京都に滞在中の文禄2年(1593)の盂蘭盆会に、お国自慢として大燈籠を作らせ、京都の町を練り歩いたことから始まったという説。
- 農民行事説
- 七夕祭りや虫送り、精霊流しのように、稲が健やかに成長することを願い、農作業中に襲ってくる邪気(眠気)を追い払う行事「眠り流し」が始まりという説。
この中で最も有力なのが、農民行事説である。現に、ねぷた本体の肩(側面)には、 「七夕祭」と書かれることがあったり、本体前面の額(下部の箱形の部分)に、「雲漢」 (中国語で天の川の意)と書くことからもうかがえる。 現在のようなねぷたが初めて文献に登場するのは、弘前藩庁『お国日記』享保7年(1722)の条である。
構造
- ①鏡絵
- 主題となる絵。三国志や水滸伝などの中国の武将絵、津軽為信などの郷土に関する人物、日本の神話などが書かれる。
- ②見送り絵
- 額縁の中に、女性の絵を描く。鏡絵に関係するものが多い。
- ③袖絵
- 虎や龍、お経など、見送り絵を引き立てる絵を配する。
- ④肩
- 町名や団体名を書く。また、反対側には「七夕祭」や「石投無用」の時を配する。
- ⑤額
- 正面(前)には「漢雲」と書く。両脇と背面には武将の絵を描く。両脇の武将は進行方向を向いている。
- ⑥ため
- 電線や信号機をよけるために、この部分を折り返す。
- ⑦開き
- 赤い額縁の中に、津軽家の花である牡丹の絵を配する。
隊列
- ①前燈籠・町印
- 町名や団体名をいれた燈籠。これからその団体のねぷたが来ることを前触れする
- ②前ねぷた
- 小の扇ねぷたや人形ねぷた、からくりのあるものなど、趣向を凝らした山車。
- ③本ねぷた
- 隊列のメインとなる扇形や人形のねぷた。大きいものでは7mを越える。
- ④囃子(太鼓・手摺鉦・笛)
- 2~4尺の太鼓を台車に乗せて曳き、その太鼓を1mほどのしなるバチで叩く。その後ろに手摺鉦(「じゃがら」とか「ちゃがね」などと呼ぶ。)、横笛が並ぶ。ここで隊列が終了する。 ねぷた囃子には「行進」(解散場所まで)、「休み」(待機中や停止中)、「戻り」(解散場所以降)の3つがあり、 それぞれの状況で使い分ける。
運行
弘前ねぷたの運行は、大きく分けて2種類ある。1つは、繁華街の決められたコースを、合同で運行する、合同運行と、もう1つは、各ねぷたが、それぞれの町会を 回って地区の人にお披露目する、自由運行である。特に前者は、 壮大なねぷたがずらりと立ち並び、まさに「時代絵巻」を思わせる風情がある。 合同運行には、大きく分けて、以下の2コースがある。
- 土手町コース(桜大通り~土手町~土手町十文字)
- 8/1から8/4までは、土手町コースで運行され、1日と2日は審査が行われる。待機するねぷたと、弘前公園の織りなすコントラストは壮観である。
- 駅前コース(中央通り~弘前駅前~土手町十文字)
- 8/5と8/6は、駅前コースで運行される。午後3時頃には、北大通りに待機するねぷたが2列から4列で並び、勇壮な雰囲気を漂わせる。
- なぬかびコース(土手町十文字~土手町~桜大通り)
- 昼間に、土手町コースの逆進で運行される。昔はこの日に、川(岩木川)でねぷたを洗った。