三国志

<三国志>西晋の陳寿が編纂した中国の歴史書で二十四史の一つ。中国・三国時代、魏・呉・蜀の三国が争覇したことを叙述し、魏志30巻・呉志20巻・蜀志15巻の65巻からなる。曹操・孫権・劉備らが合い争ったことは有名。また、魏志の「東夷伝倭人の条」(魏志倭人伝)は3世紀ごろの日本に関する重要な文献。
<三国志演義>羅貫中の作といわれる中国の長編小説で、四大奇書の一つ。三国志を元に、民間伝承を交えて編纂される。蜀の劉備・関羽・張飛・諸葛孔明ら英雄の活躍を描く。日本では江戸時代に訳出された。

夏侯惇【かこう とん】
生年不詳-220年。中国、後漢末から三国時代の武将。字は元譲。豫州の沛国譙県の人。前漢の高祖に仕えた夏侯嬰の末裔。曹操と夏侯淵の従兄弟。徐州(陶謙)征伐で後方の守備にあたる。曹操の不在の間に呂布から急襲を受け捕虜となるも韓浩により救出される。呂布討伐で、高順に一度は敗れるも、呂布軍を撃破。その後、劉表配下・劉備による侵攻を防ぐべく、于禁・李典らを従え出陣するが、劉備により博望へと誘引され挟撃される。李典の援軍により全滅を免れる。 并州の高幹による反乱を抑え、高幹・張晟を撃破し、衛固・范先を捕らえる。 曹操の没後、病死。「三国志演義」では、董卓配下の徐栄を突き殺し、呂布配下の将軍・高順を一騎打ちで追い払う。呂布との戦いで敵将・曹性に左目を射抜かれるが、刺さった矢を眼球ごと引き抜いて喰らい、曹性の顔を突き刺して討取る。
華雄【か ゆう】
生年不詳-191年。中国の後漢時代末期の董卓配下の武将。胡軫配下として呂布とともに孫堅征伐に参加。呂布と胡軫の確執により大敗し追撃に遭い戦死。晒し首となる。 「三国志演義」では、身の丈九尺を誇る豪傑。董卓討伐軍の結成時、驍騎校尉として汜水関の守将を務め、鮑信の弟・鮑忠を斬る。その後、孫堅配下・祖茂、袁術配下・兪渉、韓馥配下・潘鳳などの武将を討ち取るが、関羽により討ち取られる。
関羽【かん う】
生年不明-219年。中国三国時代の蜀漢の武将。字は雲長。元の字は長生。司隷・河東郡解良の人。封号は漢寿亭侯。諡は壮穆侯。見事な鬚髯(鬚=あごひげ、髯=ほほひげ)をたくわえていたため「美髯公」などとも呼ばれる。子は関平・関興。張飛とともに劉備を助け、赤壁の戦いに大功をたてたが、のち呉に捕らえられて死亡。後世、武勇と義理堅さから、関帝(関聖帝君・関帝聖君)として祀られる。三国志演義では、身の丈9尺、2尺の髭、紅顔で重さ82斤の青龍偃月刀と呼ばれる大薙刀を持ち、赤兎馬に跨る。
関興【かん こう】
生没年不詳。三国時代における蜀の武将。字は安国。関羽の二男。兄は関平。関羽の弔い合戦では、張苞を兄として義兄弟の契りを結び、全身に白い鎧をまとって出陣。亡き父の霊に助けられ、父の仇の一人・潘璋を斬る。得物は父の形見・青龍偃月刀。第4次北伐の際に病没。
甘寧【かん ねい】
生没年不詳。中国の後漢末、三国時代の呉の武将。字は興覇(こうは)。益州の巴郡臨江県の人。甘瓌・甘述の父。食客八百名を連れて劉表に身を寄せたが任用されず、劉表配下・黄祖の元に留まり、黄祖軍として孫権軍の凌操を討ち取るが、冷遇に耐えきれず、孫権配下となる。荊州を押さえ、さらに益州をも攻め天下に覇を唱えるという「天下二分の計」を提言。孫権に気に入られ、黄祖攻めに従軍、孫権軍は黄祖を討ち破る。周瑜に随行して曹操を烏林で打ち破る。南郡の曹仁攻略に参加。「三国志演義」では、赤壁の戦いで偽って投降してきた蔡中を利用して敵陣深くに潜り込んで火を放ち、さらに逃げる曹操に追いすがり損害を与える。夷陵の戦いで、病を押して出陣するも、沙摩柯の矢を受けて戦死。
関平【かん ぺい】
178年-219年。中国三国時代の蜀漢の武将。父は関羽、弟は関興。荊州において関羽と魏の曹仁、呉の呂蒙との戦いの時に随行し、呉軍に捕縛され関羽と共に首を討たれた「三国志演義」では河北の住人・関定の次男。兄は関寧。関羽の養子。新野に夏侯惇が攻めてきた際、諸葛亮の指示に従い、劉備の養子・劉封と共に働き功を立てる。周瑜が天下二分の計を論じ、益州の地を取りに行くと称し、劉備を殺そうとしたときも劉封と共にこれを防ぐ。益州攻略戦で劉封とともに従軍。軍師龐統が流れ矢に当たり死亡したため、諸葛亮や荊州の助けを得るようと援軍要請の使者として単騎で荊州に向かい、養父関羽と共に荊州に留まる。呂蒙に攻められ、養父と共に首を斬られる。
許褚【きょ ちょ】
生没年不詳。中国、後漢末から三国時代の魏の曹操配下の武将。字は仲康。諡は壮侯。許定の弟、許儀の父、許綜の祖父。力が虎のようだが痴であったので「虎痴」と呼ばれる。官渡の戦いに従軍したとき、謀叛しようと企てた徐他らを打ち殺す。韓遂・馬超との戦いで、馬超軍の雨のような矢をから曹操を守る。その後、馬超軍との戦いで自ら首級を挙げ、武衛中郎将に転任。
黄忠【こう ちゅう】
生年不詳-220年。字は漢升。中国三国時代の蜀漢の武将。諡は剛侯。子は黄敍。荊州南陽郡の人。元は荊州の劉表に仕えるが、赤壁の戦いの後に、劉備が荊州南4郡を平定すると、劉備に帰順し、韓玄配下となる。弓の名手。漢中攻めで、曹操配下・夏侯淵と定軍山において対峙し、討ち取る。「三国志演義」では60歳を過ぎてから劉備に仕える。漢中攻略時に厳顔とともに、張郃・夏侯尚らを破り、韓浩を討ち取る。その後、定軍山で夏侯淵を討ち取り、漢中平定後に五虎大将軍の一人となる。老いても勇猛果敢な黄忠の伝説から「老黄忠」と呼ばれる。
呉夫人【ご ふじん】
生年不詳-202年または207年。呉郡の人。孫権の母。弟は呉景。死後、皇帝に即位した孫権に武烈皇后と追号される。

祝融夫人【しゅくゆう ふじん】
生没年不詳。南蛮の王・孟獲の妻。祝融神(中国古代神話の火の神で、南方を司る方位神)の末裔。三国志演義でのみ登場する人物。夫・孟獲は、蜀に反乱を起こしたものの、鎮圧に来た諸葛亮に何度も破れる。それに見かねた祝融は、手に薙刀を持ち、背に数本の飛刀を収めた箱を背負い、蜀軍と対峙。 蜀将・張擬、馬忠を一騎打ちで捕らえる。諸葛亮は、罵声して祝融を怒らせ、魏延にわざと負けさせて自陣に引き込んで祝融を生け捕り、捕らえられていた馬忠・張嶷と祝融を交換。その後も夫・孟獲は連敗し、夫とともに蜀に降伏。
諸葛亮【しょかつ りょう】
181年-234年。は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・武将・軍略家・発明家。字は孔明(こうめい)。諡は忠武侯(ちゅうぶこう)。妻は黄夫人。司隷校尉・諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。伏龍、臥龍とも呼ばれる。劉備に仕え、赤壁の戦いで魏の曹操を破る。劉備没後、その子の劉禅の丞相として補佐。出師表を奉って漢中に出陣、五丈原で魏軍と対陣中に没す。
徐晃【じょ こう】
生年不詳-227年。魏の武将。字は公明。徐蓋の父、徐覇の祖父。河東郡楊県の人。元は李傕配下・楊奉に仕える。楊奉に曹操への接近を進言するが、楊奉が進言を受け入れずに曹操と対立すると、楊奉から離反して曹操に帰順。呂布討伐、官渡の戦い、馬超討伐などで活躍。219年、趙儼と共に荊州へ向かい、樊城を包囲する関羽の軍勢を撃退して曹仁を救援。曹丕が魏の皇帝になると、右将軍に昇進し、夏侯尚とともに劉備を打ち破る。227年に病死、諡号は壮侯。「三国志演義」では、大斧を愛用。関羽を一騎打ちで退ける。孟達の謀反を討伐中、孟達が放った矢に額を貫かれて戦死。
徐夫人【じょ ふじん】
呉郡富春の人。孫権の后妃。孫堅の妹の孫。父は徐琨。孫権が討虜将軍として呉郡に住んでいた頃に結婚し、孫登の養母となるが、嫉妬深い性格から離縁される。孫権が本拠地を移した後も呉郡に住み続ける。孫権が帝位に就いた後病死。
曹洪【そう こう】
生年不詳-232年。中国の三国時代、魏の武将。字は子廉。曹操の従弟。曹操四天王の一人。馬を失った曹操に自らの馬「白鵠」を譲る。呂布の反乱で、本軍に先行し東平・范を占拠。曹操が呂布を敗走させた後は、十県以上を攻め落とす。202年の官渡の戦いでは兵糧などの後方補給などで曹操の覇業を補佐。曹操が烏巣に攻撃した際、その留守を守り、袁紹配下・張郃・高覧らの攻撃を防御。218年、氐族の酋長・強端と結んで侵攻した蜀将・呉蘭、雷銅を、強端・曹休・辛毗と共に斬る。232年に他界し、恭侯としての諡号を送られた。
曹操【そう そう】
155年-220年。中国後漢末の武将。字は孟徳。沛国譙県の人。魏の始祖・魏王。廟号は太祖、謚号は武皇帝。父は曹嵩。従兄弟は夏侯惇、夏侯淵。190年、袁紹を盟主とした反董卓連合軍が成立すると、親友・袁紹のもとに駆けつける。董卓が洛陽を焼き払い長安に遷都した際、盟主・袁紹に攻撃を示唆するが受け入れられず、単独で董卓を攻撃するも、董卓配下・徐栄により壊滅的な打撃を受ける。200年に官渡の戦いで袁紹を破り、華北を統一。204年、袁氏の本拠・鄴を攻め落とし本拠とする。207年、烏丸族を討ち、袁氏一族を滅ぼす。208年、赤壁の戦いで、孫権軍・周瑜の策略により軍船が火攻めに遭い敗北。しかし、翌々年には馬超をはじめとする関中の軍閥を攻略、そして漢中の張魯を降伏させる。216年、魏王となり魏を建国。220年、病死。太祖武帝と追尊される。
孫権【そん けん】
182年-252年。中国、後漢末から三国時代の人物。字は仲謀。呉の初代皇帝(在位222年‐252年)。廟号は太祖。孫堅の次男であり孫策の弟。弟は孫翊、孫匡、孫朗。妹は孫夫人。子は孫登・孫和・孫覇・孫休・孫亮・孫魯班。揚州呉郡富春県の人。父・兄の事業を継いで、江東六郡を支配。208年、父の仇・黄祖を討ち取る。赤壁の戦いで劉備と同盟し、曹操軍を破る。219年、劉備と手を切り曹操と同盟。劉備配下・関羽を討ち取り、荊州を奪取。呉王となる。222年、劉備を夷陵の戦いで破り、魏から独立。252年、71歳で死去。
孫堅【そん けん】
155年-192年。中国後漢末期の人物。字は文台。呉郡富春県の人。呉の皇帝。孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。184年、黄巾の乱の鎮圧のため、漢王朝・朱儁の下で参戦。黄巾の渠帥波才撃破に一役買う。朱儁が汝南、潁川と転戦すると、孫堅もそれに従い軍功をあげる。宛城の攻略において、西南方面の官軍を率いて大勝利を収める。186年、辺章と韓遂の反乱の鎮圧に参加。反董卓連合軍に参加。荊州刺史・王叡、南陽郡太守・張咨を殺害。董卓配下・華雄の首を挙げる。董卓は孫堅の勢いに恐れをなし遷都を決断、洛陽を焼き払って西へ逃れる。反董卓連合軍が事実上瓦解し、盟主・袁紹と袁術が対立し始めると、袁術に従い襄陽の劉表を攻める。劉表配下・黄祖と一戦して打ち破り、襄陽を包囲するも、襄陽近辺の峴山で黄祖の部下が放った矢に当たり絶命。「三国志演義」では、反董卓連合軍に参加。程普、韓当、黄蓋、祖茂ら四将を率いる。胡軫を討ち取るも、華雄に敗れる。白銀に光り輝く鎧を身に付け、赤頭巾を被り、腰には古錠刀をさげ、乗騎は斑のたてがみ。江夏攻略で黄祖の守る樊城を落とし、襄陽を包囲。蔡瑁に勝利。蒯越の策謀による呂公の罠により、落石に押し潰されて死亡。
孫策【そん さく】
175年-200年。中国の後漢末の武将。字は伯符。諡は長沙桓王。呉郡富春の人。父は孫堅。弟は呉の初代皇帝・孫権。194年、袁術に対し、亡父孫堅の軍の返還を求め、約1,000人程の軍を返還させ、程普・黄蓋・韓当・朱治らを旗下に戻す。 さらに周瑜の進言もあり「江東の二張」と呼ばれていた張昭・張紘・蒋欽・周泰らを傘下に入れる。 195年、緒戦を連勝し、劉繇のいる曲阿に進軍。太史慈との一騎打ち応じるも引き分けに終わる。劉繇が曲阿を捨てて逃亡し、ここを拠点として勢力の拡大を図る。196年、呉郡攻略で、太守・許貢に勝利。会稽郡攻略で太守・王朗に勝利。太史慈を打ち破り、配下とする。翌197年、孫策一族・袁胤を追放し、袁術に対し独立を宣言。周瑜・魯粛が合流、呉景・孫賁も従う。199年、袁術の死後、旧袁術軍を手に入れる。その後、父の仇・黄祖に攻撃を仕掛け敗走させる。続いて豫章を平定し、江東、江南をその支配下に治めた。200年、曹操の本拠・許都攻略の矢先、許貢の残党により長江のほとりで襲撃されて重傷を負い、それが元で死亡。「三国志演義」では、許貢の残党に孫策が襲撃された後、呉郡・会稽で人々の信仰を集めていた道士・于吉を人心を惑わすという理由で斬り捨てる。死後も鏡の中に現れた于吉を殴打した際、傷口が開き死亡。

太史慈【たいし じ】
166年-206年。後漢末期の武将。字は子義。子は太史享。青州東莱郡黄県の人。学を好み、身の丈は七尺七寸で武勇に優れ、弓の名手。元は東莱郡の官吏。不在時、母の面倒を見た孔融が黄巾軍の残党・管亥に攻められると救援に駆けつけ、単騎で敵の包囲網を突破、孔融を救う。劉繇に目通りした直後、孫策の軍隊が攻めてきて、偵察任務をしていたところを孫策と出くわし、一騎討ちで引き分ける。劉繇が孫策に敗れた後も自ら兵士をまとめ抵抗したが、敗れて捕らえられ、孫策配下となる。劉繇が病死したことを知ると、残兵をかき集める。劉表の甥・劉磐の侵攻を防ぎ、黄祖討伐などで活躍。孫策・孫権からも重用される。赤壁の戦い前に41歳で死亡。「三国志演義」では、赤壁の戦いで活躍。209年、合肥の戦いで張遼と戦い、夜襲を仕掛ける。そのときに受けた矢傷がもとで死亡。
貂蝉【ちょうせん】
後漢の臣・王允の養女。古代中国四大美人の一人。「三国志演義」で王允は、董卓と呂布それぞれに、貂蝉を謁見させ、惚れさせ、仲違いさせる。その後、呂布が王允と結託し、董卓を殺害(連環の計)。董卓殺害後は呂布と共に行動し、198年、呂布と共に曹操に捕らえられ、関羽に斬られる。
趙雲【ちょう うん】
三国時代、蜀の名将。公孫サンに仕えたが,後に劉備の臣となる。劉備が曹操の急迫を受けて置き去りにした子の劉禅と甘夫人を、単騎で救出。曹操との漢中攻防戦では、偵察中に魏軍の本隊と遭遇。見事な撤退を演じ,劉備から賞賛される。劉備の死後、諸葛亮が蜀の本隊を率いて出陣した際、陽動部隊を率いて進軍するも曹真の軍に敗退。翌年没す。
張飛【ちょう ひ】
生年不詳-221年。中国三国時代の蜀漢の武将。涿郡の人。字は益德。封号は新亭侯。諡は桓侯。子は張苞・張紹、敬哀皇后・張皇后。劉備と彼の建国した蜀漢に仕える。勇猛だが粗暴で、呉討伐の際に部下に殺される。三国志演義では、字は翼德。身長八尺、豹のようなゴツゴツした頭にグリグリの目玉、エラが張った顎には虎髭、声は雷のようで、勢いは暴れ馬のようと表わされる容貌。一丈八尺の鋼矛・「蛇矛」を振るう。
丁奉【てい ほう】
生年不詳-271年。揚州安豊の人。中国の三国時代に呉に仕えた武将。字は承淵。弟は丁封。礫の名手。孫権の時代から呉に仕える。252年、孫権が死んだ隙を付いて攻め込んできた司馬昭が統括する胡遵・諸葛誕ら魏軍を、諸葛恪らとともに破る。孫休が呉の第3代皇帝として即位すると、張布とともに、孫綝を打倒。271年、死去。「三国志演義」では、赤壁の戦いで、徐盛とともに諸葛亮を殺害するように命じられる224年、魏が侵攻してきたときには、徐盛の副将として張遼を射殺。263年に魏が蜀に侵攻した際には、蜀の援軍に赴く。

馬謖【ば しょく】
190年-228年。中国三国時代に蜀に仕えた武将。字は幼常。襄陽宣城(湖北省宜城県)の人。諸葛亮に重用され、先鋒の総大将に任ぜられたが、軍令に背いて戦い敗北したので、軍律に従い、亮が涙をふるい処刑したという「泣いて馬謖を斬る」の故事で知られる。
馬超【ば ちょう】
176年-222年。中国三国時代の蜀漢の武将。字は孟起(もうき)。諡は威侯。扶風郡茂陵県の人。後漢の名将・馬援の子孫。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰。子は馬秋・馬承。娘は安平王劉理の妻。弟は馬休、馬鉄、従兄弟は馬岱。羌族の血を引き、漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚い。司隷校尉鍾繇の要請を受け、部下の龐徳とともに、一万の兵を率いて平康の郭援と高幹を討伐。詔勅によって徐州刺史となり、後に諌議大夫に任命される。曹操と敵対し兵を挙げるも大敗し、西方の羌族の地に逃れる。その後、羌族の兵を集めて再び曹操軍を攻め、涼州刺史の韋康を殺害、夏侯淵を撃破するも楊阜らの抵抗により落ち延びる、劉備に帰順。それを恐れた益州の劉璋は降伏し、蜀は劉備の手中に入り、平西将軍に任じられる。「三国志演義」では、その雄姿から「錦馬超」として称えられ、五虎大将軍の一人に選ばれる。
龐統【ほう とう】
178年- 213年。中国後漢末期、劉備配下の武将。字は士元。道号は鳳雛。謚は靖侯。弟は龐林。子は龐宏。従父は龐徳公。妻は諸葛亮の姉。南郡襄陽県の人。張魯の侵攻を憂いていた劉璋より招聘された劉備に随行。成都に進撃し、劉璋を討ち、楊懐・高沛らを騙し討ちすることを進言。劉備軍は連戦連勝で進撃し、雒城を包囲するも、流れ矢に当たり戦死。「三国志演義」では、諸葛亮と義兄弟。赤壁の戦いで、周瑜に対して曹操を破るため、連環の計を進言。劉備・孫権の連合軍による火責めで曹操軍を破る。その後、諸葛亮に対面し、劉備に仕えるよう誘われ、地方県令となる。一ヶ月の間酒ばかり飲んで職務を怠けるが、張飛に詰問され、溜まっていた仕事を半日で片付ける。落鳳坡で、劉備の愛馬(的盧)に乗っていたところを劉備と間違えられ、伏兵に射殺される。

劉備【りゅう び】
161-223。中国の後漢末から三国時代の武将。蜀(蜀漢)の初代皇帝(在位221-223)。字は玄徳。 諡号は昭烈帝。祖父は劉雄、父は劉弘。妻は穆皇后呉氏(呉懿の妹)、甘夫人、糜夫人(糜竺の妹)、孫夫人(孫権の異母妹)。黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦。諸葛亮の天下三分の計に基づいた蜀の地を得て勢力を築き、魏・呉・蜀の鼎立の原因を作る。後漢の滅亡を受けて皇帝に即位し、蜀漢を建国。三国志演義では「雌雄一対の剣」と名馬「的盧」を愛用。
呂布【りょ ふ】
後漢末の群雄の一人。丁原に仕えていたが、董卓にそそのかされ、丁原の首を手みやげに董卓側に寝返り、董卓と父子のちぎりを結ぶ。一方で董卓誅殺を計画する王允の計画に荷担。朝廷で董卓を斬り、朝政に参与するが、董卓の部下李カクに長安を包囲され脱出。張バクに迎えられて曹操と戦うが敗れ、劉備の配下になる。袁術の甘言にのって劉備の本拠を乗っ取るが、袁術に裏切られ、再び劉備と手を結ぶ。その後呂布はまたも袁術につき、劉備は曹操のもとに落ち延びる。呂布討伐に立ち上がった曹操に、立て籠もった城を水攻めにされ降伏、殺される。

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